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「大切な信仰体験」

- 2005年11月6日 -

講師 水野 明廣 師

イザヤ6:1-8

クリスチャンにとって大事なことは、地位や名誉や肩書きや健康や昇進といったこと以上に“神を知る”ということです。

私の友人の一人に大きな教会を持つ牧師がいますが、その牧師にある方を紹介されました。彼女は25年間にわたり病床に臥しておられます。彼女は数々の難病を抱え、そのために顔が半分つぶれ、耳も片方しか聞こえず目も見えません。牧師は彼女がいなかったら今の自分はいません、と言われました。彼女の病棟看護師長は、新米の看護師がやってくると、彼女に合わせるそうです。新米の看護師は非常に大きなショックを受けて厳粛な気持ちになるそうです。友人の牧師は、病棟訪問で初めて彼女に会いました。用意していた教会からの花束を彼女に渡そうとすると、彼女は「私は目が見えないので、隣の人にあげてください。」といわれました。そして、「私は幸せです。私はイエス様を知っています。イエス様を知り、私は生かされているのだと思うと幸せです。」と喜ばれました。彼女はクリスチャンだったのです。牧師は今も彼女から非常に大きな励ましをもらい続けていると言われましたし、私もまた励まされました。

ステパノはイエス・キリストを証した初めての殉教者といわれています。彼は石を投げられ、罵倒と非難の中にいたにもかかわらず、聖霊に満たされて天におられる主を見ていました。すでに彼は天とつながっていました。イザヤもまた、主をはっきりと見ました。イザヤ6:1「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」とあります。イザヤは預言者としてすでに活動していましたし、それまでも民にメッセージを送っていましたが、彼は神を見て、初めて自分の置かれている立場がわかりました。

●イザヤ6:5「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』」

主を見る、神を知る、ということで、醜い自分の姿や、民の姿を知りました。それと同時に一方的な神の贖いや神の聖めを体験します。そして、聖められ、神によって遣わされます。
啓示的に神を知り、自分の罪の姿を知って悔い改め、一方的な主の恵みによりゆるされて、恵みに移されることは、私たちクリスチャンの大切な信仰体験です。使徒の働き10章には百人隊長の話があります。彼は、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人でありましたし、祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられていました。しかし、御使いによってペテロに会うように導かれ、そして初めてイエス・キリストを知り、聖霊を受けました。百人隊長はイエス・キリストを知ったのです。また、ここで一つ大事なことは、神は伝道を御使いにはお任せにならなかったということです。主は伝道を人を通してなされます。

イザヤは、神殿で神を賛美する御使いを見ました。御使いはキリストの体である教会で、顔や足を隠しながらへりくだりの限りを尽くして素晴らしいハーモニーをもって神をほめたたえていました。

●イザヤ6:1-4「そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。』」

また、教会については、このように言われています。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)また、こうも言われています。「私たちはキリストのからだの部分だからです。」(エペソ5:30)ですから、キリストの体なる教会の一部分である私たちには、神の栄光をあらわすよう、御使いが仕えているのです。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」(ヘブル1:14)

神と人とを隔てるのは、罪の隔ての壁です。イエス・キリストはご自身の体をもって、罪のなだめの供え物となりました。このイエス・キリストによる罪の贖いを、自分のものであると受け取るならば、その罪は赦され、隔ての壁は打ち砕かれます。神との関係が回復されるのです。すべては一方的な神の恵みによるものです。

●ロマ3:23-24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

罪を一方的な恵みで赦され、御使いまでもが仕える人間とは、一体どれほど神によって愛されている者なのでしょうか。どうか、主に出会い、主を知ってください。主を知ることが信仰の土台だからです。

2005年11月27日更新

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