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「大切な信仰体験」

- 2005年11月20日 -

講師 水野明廣師

聖句:イザヤ6:1-8

  「これまで、私たちが本当に主を知るということ、イエス様のことを聞いて知っているというだけではなく、主を自分の体験として知っているということの大切さを学んできました。今日は特に、私たちが主の前に聖別されている、義とされているということを知ることが豊かな命を生きて、実を結ぶクリスチャン生活のためにどんなに大切かを分かち合いたいと思います。」

●すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6:6-7)

 クリスチャンは皆、神様の方法で神様の取り扱いを受けて、赦し、あるいは義とされているということを体験的に知ることが必要です。これも頭の中で分かっているのと、本当に自分の体験として理解するのとは大差があります。パウロは

●「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」(コロサイ1:6)

と書いています。つまり、私たちが本当に理解しているのと、そうでないときとには、福音の広がりに大きな違いがあるということです。ローマ人への手紙6章には“知る”という言葉が何度も繰り返されています。知るべきことを知ってほしいのです。イザヤ書5章13節には“わが民は無知のために捕え移される”とあります。私たちは知らないがために大きな損失を招くことが多々あるのです。

 イザヤ書6章6節にある“祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭”とは何のことでしょうか。私が祈りの中で“燃える愛”という言葉が与えられました。イエス様は私たちのために愛の炎で命を燃やされました。祭壇の上で全焼のいけにえとして命を燃やし尽くされたのです。燃えさかる炭はイザヤのくちびるに触れました。彼は「私はくちびるの汚れた者」と言っています。イザヤは以前は預言者として「この民は災いだ。この社会は災いだ。」と裁く言葉を語っていました。
 しかし彼が神殿の中の臨在の中で主を知った時に、むしろ災いなのは自分だと言っています。この自分が汚れている。しかもその汚れはくちびるの汚れだと言っています。この時からイザヤの言葉が変わりました。イザヤはすばらしい神の啓示をいただいて、メシヤ預言をするようになっていきます。よく日本人は「口は災いの元」と言います。「初めにことばがあった。(参考 ヨハネ1:1)」とあります。聖霊の満たしの現れはくちびるから来ます。新しい言葉を語るようになります。私たちが新しい命に生きることの大きな特徴は言葉が変わることにあります。イエス様がこの罪深い私のために燃える愛でご自身の命を燃やし尽くしてしまわれたのです。神を愛すれば愛するほど、罪や汚れから解放されます。“燃える炭”すなわちイエス様の愛がイザヤのくちびるに触れた時、彼が聞いたのは、「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」という声です。わたしたちの義とか聖さは一方的な主の恵みであって、私たちの努力や働きで得るものではありません。クリスチャンは神の憐れみに預かった者です。(参考 ローマ9:24)

●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ 3:23-24)

 イエス様が私のために愛で命を燃やし尽くされたので赦された。この事が本当に自分のものとなりますように。主は私たちを絶対にあきらめられないし、捨てることはありません。イエス様の赦しと愛を頭で知っているのと、本当に自分のものとしているのとには大きな差があります。聖霊様は知りたいと願う人を助けてくださいます。私たちは赦された。神の義とされた。また贖われた者だ。聖霊様がこの業をして下さった方です。このことを聖霊様によって悟らせていただくように願っています。

2005年11月26日更新

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