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「確かな報酬があります」

- 2005年12月18日 -

水野 明廣 牧師

聖句:イザヤ40:1-11

 今日の聖書箇所イザヤ書40章の一番の大きな目的は、神様は絶対に報いを用意しておられるということです。神様を待ち望み、誠実に仕えている人々でも、だんだん疲れて来る時があります。どんなに主をあがめ、捧げ、祈り、仕えていても、なかなかそれが報いられず無駄な骨折りをしているのではないかと思えることもあります。(参考 イザヤ49:4)
 私たちは主がいつになったら、私の祈りに答えられるのだろうか、なぜ主は私をこのまま放置されるのですか、という思いをもつことも現実にあります。しかし、主を待ち望むことは無駄な骨折りではありません。主をあがめていくということは、むなしいことではありません。イザヤ書40章の特徴は、必ず主は報われる、主の報酬は必ずあるということです。一番大きな恵みはメシアが来られるということでした。イザヤはこのメシアに大きな望みをかけていました。当時の人々は、メシアが来られるということにおいて必ず報われると、信仰によって主を喜び待ち望んでいました。イザヤのメシア預言の約750年後にイエス様が来られました。新約の時代に生きる私たちは神の報酬がやって来ている時代に生きています。イエス様がお生まれになった時、御使いは「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせにきたのです。」と言いました。(参考 ルカ2:10)恵みと祝福に富んでおられるイエス様が私たちのために貧しくなられたので私たちは富むものとなったのです。(参考 Uコリント8:9)イエス・キリストを信じたその瞬間から、私たちは恵みと祝福に満ちた人生を歩む者となるのです。私たちはすでに神の報酬をもらっている恵みの時代に生きているのです。

●“見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。”(イザヤ40:10)

 この御言葉にユダヤ人はつまずきました。彼らはメシアが来られるのなら威風堂々と力をもって来られて、ローマ兵を駆逐してくれると考えていました。しかし神の計画は人間の考えよりもははるかに高く、全く違っていました。主は優しさという力を持ってこられました。イエス様は、愛と慈しみに満ちた優しさが人間にとって最も力あることだということを現すために来られました。
 イエス様は心優しくへりくだっておられます。私たちがへりくだって砕かれた心で主の前に立つとき、サタンは逃げ去ります。(参考 ヨハネ4:30)私たちは自分の力でサタンに対抗することはできません。本当の力とは優しさです。家庭に、教会に、社会に、国家にもこの力が必要です。そして主は愛の労苦に必ず報いてくださいます。(参考 Tコリント15:58)主は私たちの愛の労苦を覚えておられます。(参考 ヘブル6:10)必ず神様はすべてを公正に裁かれ、必ず報いをお与えになります。(参考 Uコリント5:10)主のためにしたことは絶対に無駄になりません。イザヤは人々に慰めの務めとシオン、エルサレムによい知らせを伝える者となるように言っています。私たちがエルサレムを祝福することは霊的な深い意味があり、とても大切です。しかし私たちにとって、現実のエルサレムとは、教会であったり、身近な兄弟姉妹でもあるのです。イエス様が十字架で死なれたのは、私たちがもはや呪いのもとでなく、祝福に生きるためです。私たちは常に人々を祝福する生活を営む必要があります。呪いの言葉、否定的な言葉を口にしないように気をつけ、祝福の言葉、思いを失わないようにしましょう。私たちはすでに祝福を受けたのだという信仰に基づいて、現実を超えて祝福の信仰生活を生きていくのです。主は羊飼いのように私たちを優しく導かれます。そして主のためにしたことに必ず報いをおあたえになります。

●“「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。”(黙示録 22:12)

2005年12月20日更新

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