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「救い主イエス様を知っている」

- 2006年1月29日 -

水野 明廣 牧師

聖句:イザヤ 53:1-12

  「救い主イエス様を知っている」ことはクリスチャン生活で一番大切なことです。しかし、私たちはイエス様を知っているようで知っていません。どのようにイエス様を知っているのかでその人の信仰が分かります。

 主を知るということは、学問や知識のみで知り得ることをはるかに超えたところにあります。パウロはキリストを知ったがゆえにすべてのことが損と思うようになり、人が誇っていたものは大切ではなくなったと言っています(ピリピ3:8)。主を知ったので、もはや人間的な標準で人を見ない、また人間的な考えで主を見ないようになるのです。パウロは人間的な標準で人を見る代わりに、その人が主を本当に愛しているのかを見たいと言っています。

 人間にとって平安がどれほど大切でしょうか。嵐がきても困難があっても揺るぎない平安は、主からのみ与えられます。またそのような平安は聖霊に満たされないと得ることはできません。すなわち、主を知ることによって成されるのです。

●「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。というのは、私たちをご自身の栄光と解くによって召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」(ペテロII1:2−3)

 私は昔、人間的な標準で神を見ていました。主を誤解していたのです。神様は高いところにいるお方で、人とは関わりを持たないお方であると思っていました。しかし、まことの神はとても柔和でへりくだったお方であることを知りました。しかも私達の神様は時々ではなくいつも、いつでもへりくだっているのです。

●「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:29)

 ですから、自分もへりくだればへりくだるほど神に近づくことができ、高ぶるほどに離れてしまうのです。「ごめんなさい」の謝罪の思いも神様の導きで言わされるのです。そして神様は赦しを与えてくださいます。

●「わたしはもはや決して彼らの罪と不法と思い出すことはしない。」(ヘブル10:17)

 それはキリストが十字架にかかられたのは私たちの罪のいっさいを受けられたからなのです。
 
イエス様は私たちが道をはずれないように今日もいつも私たちの執りなしをされています。

●「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(イザヤ53:12)
●「罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右に着き、私たちのためにとしなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)
●「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」(ヘブル7:27)

 主を知ることは学者のように聖書を知ることではありません。主ご自身との深い交わりにより知ることができるのです。「

●その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」(イザヤ11:2)
●「わたしが父のもとから使わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)

 礼拝の終わりに祝祷を行うとき、「父・御子・聖霊の交わりが豊かにあるように」とお祈りをささげますが、これは単に儀式で行っているのではありません。主との豊かな交わり、御霊に満たされることは主を知ることです。それは私たちに平安が与えられるためです。イエス様を信じること、それこそが奇跡であり聖霊の導きと助けがなければ成されません。

 イエス様は私たちのために上から降りてきた、助けにきた、のではなく、「私のもとへ降りていらっしゃい」、とへりくだっているお方なのです。主との豊かな交わりを持ち、御霊に満たされ、益々私たちの救い主イエス様を知りましょう。

2006年2月5日更新

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