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「主を拠りどころとして、主に心を向ける」

- 2006年4月9日 -

水野 明廣 師

聖句:エレミヤ17:5-10

 今日は主を拠りどころとし、主に拠り頼み、主に心を向ける。そういう人こそ豊かな収穫を得ますと言うメッセージです。
 弟子達が、主に「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」と尋ねた時、イエス様は「あなたがたが、神が遣わした者を信じる事、それが神のわざです。」(ヨハネ6:28,29)と言われました。この信じるという言葉は、存在を信じるだけではなく、神様が遣わされたその方に拠りたのむ、依存する、すがっても大丈夫、最善を成してくださるからと、信じて任せる事です。
 エレミヤ2-13に「私の民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」とあります。湧き水の泉である神様に頼らず、こわれた水ためである自分の力、知恵、働きに信頼していると。皆さんはどうですか。

 私は飛行機に乗る事が多く有ります。座席の前にある、テレビとかこの世の楽しみには興味が無く、ただ、私と共にいてくださる主にだけ思いを向けています。主からの喜び、主のご臨在だけが欲しいのです。アブラハムが「神はあなたと共におられる。」(創世記21:22) とアビメレクと将軍ピコルから言われたように、私もそう思われ、そう言われたいのです。飛行機は目的地へ連れて行ってくれます。車もそうです。しかし、その背後にあって全てを支配しておられるお方こそ、信じるに値する方です。私の拠りどころは、この世のすべてを創られた方、私のすべて、醜さも欠点も、隠れている自分の気がつかない傲慢さもご存知の神様です。
 或る時、私も祈りを受け主の臨在に触れて倒れ、横になっていた時、神様から自分の気がつかなかった傲慢、欠点をいっぱい見せられ「ああ神様!赦して!」と悔いたその直後、主の愛がどっと私を取り囲み、余りにも大きな愛に、「こんな醜い私をこんなに愛してくださるのですか。」と言葉に現す事のできない喜びと感謝にただ涙しました。主が礼拝でご自分を現してくださって、皆さんがそれを見て、本当に心から主の素晴らしさを賛美できたらどんなによいでしょう。
 聖い、聖い神様の目から見れば本当に私たちは罪に汚れた醜いものであるにも拘わらず、赦し、愛してくださる方、このような方こそ拠り頼むことのできる方です。

 主により頼むというのは、イエス様が私の身代わりとなって、私の罪の呪いと、過去の罪、現在の罪、これからの罪をすべて負ってくださったことを忘れない事、主に心を向ける事、信じて平安をいただくことなのです。この教会にホームレスの方々をお世話しておられた方がいます。献身的にお世話され自分の働きの収入はすべて奉げられました。しかし、何も変わらず、成果が無い。疲れ果て、身体の調子は悪くなり、心も弱り、人にも会いたくない・・・そのような思いでいた日々の或る時、台所で食事の仕度をしながら一言「主よ疲れました。あなたがこの働きを求めておられると思ってしていましたが、疲れました。」といった瞬間、イエス様が「あなたの働きは何一つ無駄になっていない。」と言われたそうです。
 すべてを見ておられた、聞いておられた、愛と慰めに満ちたお方がいつも一緒にいてくださったと知って、この姉妹は感動と喜びで「主よ、私を使って下さい。」と思わず語ったそうです。

 力のある強い者、能力・才能のあるものを用いられるのではなく、主により頼む者を主は喜ばれるのです。体力もある。収入もある。だから神はいらない、自分でやっていける、国の世話にならない、保障なんて当てにならない、と多くの人は自分の手に頼り、力に頼るという溜め水を飲んでいます。幸せそうでも主を知らなければ不幸です。本当に幸いな人とは、この天と地を創られた主なる神様を最終的に拠りどころとし、ゆだねきった人です。たとえ苦しい、つらい、不公平な事が起こっても、主は良いお方、愛なる方、悪を憎まれる善なるお方と信じて、従う事ができる人は幸いです。信仰には従順が伴うのです。

 イエス様は「私の荷は軽い」と言われました。できない事は決して言われません。主が負ってくださるのです。本来クリスチャン生活は自由で楽しいものです。いつも喜んでいなさい。と言われました。すべての重荷を主の足元に下ろし、主に委ねきって頼り切って生きて行く事が一番の豊かな収穫を得る道です。その人は流れのほとりに植えられた木のようなのです。時が来れば実が成ります。
 皆さんがますます豊かな実を実らされるよう祈っています。何が有ろうとも主は決して私たちをお捨てになりません。イエス様に栄光をお返しします。

2006年4月12日更新

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