トップページへ神の家族キリスト教会

 

「主を求めることと主に祈ることを絶やさない」

- 2006年4月30日 -

水野 明廣 師

聖句:エレミヤ書29:11−3,マタイの福音書6:33−34


●「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げ。—それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ書29:11〜13)
●「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります。」(マタイの福音書6:33−34)


 主を求めることと主に祈ることを絶やさないことは、私たちの生涯のうちに良い実を結ぶことになります。「主を求めること」はまた同時に「主が(私たちに)求めていること」でもあります。主の約束への信仰の応答が求められているのです。つまり、神様が私たちに約束され、備えてくださっている良い計画が成就されていく人生となるために主を求め祈り続けること、どんな約束も祈り求め信じ続けることが、実りあるクリスチャン生活にとって肝要なのです。

 旧約の時代、主は預言者エリヤに「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」ということばをお与えになりました。エリヤはそのことばに従い、飢饉のひどいその地へ出かけました。全能なる神が「雨を降らせる」と約束されたのですから、その通りになるでしょう。しかしなおもエリヤはその約束について信仰で応答し必死に祈りました。主は乾いたその地に大雨を降らし約束を成就されました(列王記第一18章)。クリスチャンのなかでも、主の実を得る人と得ない人、とがいます。どうしてこんなことが起こるのか、何でこんな状況に置かされるのか・・・でもなお主を求める人が神のご用意されている素晴らしい計画が成就され、良い実を得るのです。
 残念ながら私たち人間の能力には限りがあります。子どものために何かしてあげたいと願っている親にも、すべてを思いのままに与えることはできません。しかし私たちの神様は、私たちがいくら頼っても決して困ることはありません。クリスチャン生活と世の中と違うところは、クリスチャンとして成長すればするほど、もっと神様に頼り求めたくなるのです。ほどほどに求めるクリスチャンなら、ほどほどのクリスチャンです。

●「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ書33:1)
●「ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。」(イザヤ書30:19)

どれほど切に主を求めているのか、主はそれに応じて与えてくださるのです。

 それでは、私たちはどのようにして主を求めていけばよいのでしょうか。まずは何よりも第一に神の国と神の義を求めることです。神の国とは、主が治めている国、つまり愛と喜びが治めている、溢れている国です。苦痛に満ちた、嘆きに満ちた地獄には誰も行きたいと思いません。私たちは、天国は幸せが溢れているところだから行きたいと望むのです。愛と喜びに満ち、幸せ溢れるところには、愚痴やつぶやきはありません。否定や負の要素となるものはありません。正義しかないのです。私たちの生活している世の中ではイライラしたり、つぶやきが漏れたりします。しかし、主に購われた私たちの前にはいつも主がおられるのです。いつも主のご意向を聞きましょう。このようなことをしてよいでしょうか、この言葉はどうでしょうか、と共におられる主に尋ねましょう。私たちの家に、心のうちに、主の御国はありますか。天国にはないものがありませんか。御国が来ますようにと祈り求めましょう。

●「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」(マタイの福音書6:28)

 神様がこのようなことを強調される理由は、着物が大切ではないと言っているのではなく、それよりもっと大切にすることがあると私たちに教えるためです。主が、主を第一に求める、ということを私たちに望んでおられるからです。主を第一に求めればその他のものはついてきます。優先順位を正しく確立していくことが大切です。ヨブが味わった試練はできれば経験したくないものです。しかし、ヨブが学んだことは、主こそ私の必要なもの、金でも銀でも肩書きでもない、ただ主に認めてもらいたい、主の喜びが私の喜び、ということです。主を求めて行くことは謙遜さの現れ、柔和さをもたらします。神様はへりくだった心、やわらかい心を喜ばれます。主はヨブが試練を味わう前よりその後の彼の人生をもっと祝福されました。主を知ることでクリスチャン生活が充実し、感動や力を得るのです。

 最後に、主を求めるとき主の定められた方法があるということをお話します。そしてこれは決して忘れてはならないことです。
●「最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」(歴代誌第一15:13)

 私たちが神の御前にはばかることなく大胆に出ることができ、祈り求めることができるのは、イエス・キリストの十字架の購いのおかげであるということです。イエス様は「私が(神様と私たちを結ぶ)道である」と言われました。神様は私たちを罪から救い出すために罪なき御子を世に送られ十字架につけられました。イエス様の十字架の血潮なくしては、私たちは罪に覆われたままであり、神様の素晴らしい約束を得ることはできません。主の臨在を運べるのはきよい魂であり、主の臨在はきよさの中にあります。私たちはいつも主の前にいるために、私たちのうちに神の国を得るためにきよめを大切にすることが必要です。自分は罪人であることを告白し、罪から救ってくださる救い主イエス・キリストを受け入れ、神の子とされ、神の御前に大胆に歩み出て神を求めましょう。
 「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」神様は私たちに約束されています。信仰によって主を求めていきましょう。

2006年4月28日更新

先頭へ

戻る