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「父なる神の愛」

- 2006年5月28日 -

水野 明廣 師

聖句:ローマ8:14-17,23

 一番大切なとき、その答えは「今」です。というのは、今しか生きることができないからです。今は恵みの時です。私たちは過去はどうあれ、恵みの下に生かされている恵まれた者、愛されている者です。そのことを分かち合います。御言葉の中にイエス様が何のために私たちの所に来られたかが書いてあります。

●「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)
●「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)
●「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」(Tヨハネ3:8)


 今も悪魔のわざのために、様々な災いや混乱があり、現実に病いや悲しいことが起きます。しかし、これは本質的に神の御国にはありません。天国には、老いもなく、足腰が悪くなって人の世話になることもない、私たちのからだの贖われた所(ローマ8:23)です。

 このようにイエス様が来られた理由は色々ありますが、別な言い方もできます。それはイエス・キリストは私たちに神様とはどんなお方かどうしても知って欲しくて来られました。神様を知ることがクリスチャン生活に最も大事な知識です。神様を知ることが知識の始まりです。神様を知ることが何よりも大事です。ですから、神を知ることを切に追い求めましょう。私たちは時に、間違った知り方をしてしまいます。神様は知って欲しいのです。イエス・キリストは神を現すために来られました。(参照へブル1:1-3,コロサイ1:17-19,ヨハネ1:14-18)

●「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)
●「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)


 ヨハネはイエス様と一緒に地上で3年半過ごし、親しく交わりましたがイエス様を本当に知っていたかは怪しいです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」(ヨハネ1:18) つまり、イエス様という神の御子が、私たちに神を解き明かしてくださいます。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」(ヨハネ14:6)とありますが、道というのはどこかに私たちを連れて行くための道です。イエス様はわたしによらなければ父のみもとに行けませんと言われました。ピリピが「父ってだれ?」って聞くと、イエス様は「わたしを見たのなら父を見たよ。」と答えられます。
 今日までカウンセリングなどをする中で、「イエス様は言いやすいが、父、お父さんは言いにくい。」と言う声をたくさん聞きました。みなさんはどんなお父さんに育てられましたか?愛情豊かでしたか?冷ややかでしたか?理解して受けとめてくれましたか?冷たく批判的でしたか?イライラしてる、びくびくしてる、自信がない、無関心などなど、それぞれ二人として同じお父さんはいません。完璧なお父さんなどいません。イエス様はどんなお父さんにもまさった父なる神様を信じて欲しいために、自分の父、母、妻、子、兄弟姉妹を憎まなければわたしの弟子としてついて来れないと言われました。
 ユダヤ人の家庭は家族の絆が強く、伝統的な家庭ではお父さんによってユダヤ教の礼拝が守られています。そういうなかでは、父なる神様を第一にし、頼りにすることができにくいし、理想的なお父さんを持つとこれもまたむつかしいです。「父なる神様がどういうお方か知って欲しい。」これがイエス様が一番願っておられることです。麗しい父なる神様との関係で、愛し合う交わりが生まれるとクリスチャン生活は落ち着いてきます。

●「私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」(Tコリント1:19)
●「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(Tヨハネ1:3)


 ヨハネの知っているイエス様は、柔和でへりくだっておられ、くすぶる燈芯を消すこともない、優しさの極みのようなお方です。そこには力強さもなく、縛られ、打たれ、いばらの冠をかぶらされ、十字架を背負わされ、悲惨で、弱々しくみすぼらしい方でした。しかし、パトモス島で主の日に聖霊様の感動を持って見たイエス様はスケールの大きい、偉大な、目を輝かせ、口からまるで剣のような言葉は出てるし、驚き圧倒されます。驚くべき尊厳と威光を身にまとっておられました。私たちの今信じている神様とは私たちの思想や言葉を越えた最高の親に勝る最も麗しい素晴らしいお方です。優しさの極み、柔和そのものでありながら、その勢いと力はまさに全能、驚くべきお方です。ヨハネは聖霊様の感動を全身に受けて、主の日に御霊に感じた時知りました。決して、人間の知性では神を知ることはできません。
 私は、失敗して罪を犯して、神様に祈ることも、心を向けることも出来ない時、突然、放蕩息子のシーン(ルカ15:11-32)を主は描かしてくださいました。私たちの父なる神様はこの父親のように、あきらめない、見捨てないお方です。この時、強く聖霊様が働いてくださって、私は鏡の前に立って「自分は醜いな」と思っていると、「ここに素敵な子供がいるじゃないか」「素敵な子供って」と神様と会話をしていました。私はこんなに罪深いのに、「わたしの自慢です。この息子が大好きです。わたしは彼を喜んでます。わたしが彼を生んだんです。」と神様はしきりに励ましてくだいました。これが、私の人生を変えました。

 父なる神様との素晴らしい関係が確立すると落ち着いた生活だけでなく、平安が強くなります。試練があっても、私を守り、私を知り尽くし、理解しておられる父なる神様が共におられるので、いつまでも心乱れたまま時間を過ごしません。私は今日もっと、聖霊様を歓迎し満たされて欲しいです。御霊によってのみ「アバ父」と呼ぶことができます。(ガラテヤ4:6) 主の素晴らしさは聖霊様によってわかります。そのために、聖霊様は働いておられます。父なる神様は限りない愛で永遠の愛をもって私たち愛し支えておられます。私たちの休み場です。もう一度言います。イエス様は私たちに父との交わりを、また、父を主を知って欲しいので来られました。父なる神の目的が満たされる時に主の素晴らしい御業と栄光を現す働きに邁進できます。(ハバクク 2:3)

2006年6月7日更新

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