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「キリストが私のうちに生きておられる@」

- 2006年7月30日 -

竹田 亮一 師

聖句:詩篇139:13-18

聖句
●詩篇139: 13-18
「それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目覚めるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」


●ガラテヤ人への手紙2: 16
「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

●ガラテヤ人への手紙3: 1-3
「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」


 本日のメッセージの前に、私の海外宣教についてお話しします。昨年6月ペルーのリマでペンテコステ教役者大会がありました。開催期間中には一般の方も参加する集会もあるのですが、当初2,000人を予想していましたが総勢4,500人が参加され、朝7時から集まり昼過ぎまで熱気あふれる集会を行いました。昼食を用意したのですが、その日の食事はその支給された昼食のみ、という貧しい方がほとんどでした。また、勉強会には5日間かけてアマゾン川を下って来られた方もいました。ジャングルの奥地から出てきますので3日間くらいかけて来るのは珍しいことではないとのことです。勉強会では参加者の方々が大変熱心にノートをとられるので、訳したハンドアウトを用意し配布しようとすると、人数分用意してあるのですがみんな一斉に我先に取りに来ました。講義のお礼にと自分の持ち物を差し出してくださり、中には非常に暑いのに自分のかぶっていた帽子をお渡しになられた方もいました。お断りしても、どうしてもお礼がしたいので受け取ってほしいと差し出されました。
 みなさんに申し上げたいのは、全く違う環境・国にも私たちと同じ兄弟姉妹がいる、ということです。兄弟姉妹の救いのため、福音の拡大のために祈りましょう。

 さて、みなさんは自分がどうやって産まれてきたかについてどう思われているでしょうか。14節の「私のたましいはそれをよく知っています。」という、このことが重要です。「たましい」が「知っている」、つまり理解や知性のみではなく、もっと深い根本的なところで知っている、ということです。私たちの誕生には、単に生物学的な肉体のことだけではなく、神の直接の介入があるということです。ここでの「知っている」という言葉の語源は「腹の底からよく知っている」という意味が含まれています。これは、信じる、というクリスチャンの信仰告白とはまた異なります。
 日本の文化のなかでは、謙遜ということが必ずしも肯定的な意味を表すものではありません。自己卑下、自己犠牲は美しいこと美徳であるとし、自分をいつも否定することは必ずしも聖書的なことではありません。先にも述べたように、私たちの誕生には神の直接的な介入があり、神が私たちを造られました。ダビデの子アブシャロムはダビデに反抗し、王位を奪い取り、父ダビデの敵となりました。
しかしその息子が亡くなったという報告をダビデが聞いたとき、ダビデは彼の死に非常に胸を痛め、かわりに自分のいのちを投げ出したのに・・・というほどに嘆き悲しみました。これは私たちの天の父の思いそのものです。キリストは自らの命を投げ出して私たちを救われたのです。それほどまでに神は私たちを愛おしいと思っておられ、私たちと共にいたいと願っておられるのです。これは聖書の基本です。

 現代の私たちの間で普及しているキリスト教は、西洋的影響を受けたキリスト教です。それは啓蒙思想と結びついており、個人の考え・個人の救いが中心であります。これらの“個人”としてのものも大切ですが、“教会”としてのものも必要であり重要なことです。次にガラテヤ人への手紙を拝読しますが、聖書のなかにある「手紙」は当時の教会宛に書かれた書物です。ですから、「手紙」とつく書簡は教会として会衆のなかで一緒に理解していくことも大切です。
 義とされるということの本質は、失う・失わない、ということではありません。神が始められた義が私たちのうちにあるならば神は必ずそれを完成されます。だからといって何をしてもよいということではありませんが。パウロはキリストの十字架の業を見てもなお割礼など異邦人に対してユダヤ人の生活を強いたガラテヤ人に対して「ああ愚かなガラテヤ人」と憤りを表しています。
弟子たちは、神は異邦人にも区別なく福音を伝え宣教することが神の御心であるということに辿り着きました(使徒15)。割礼を受けている・いないに関係なく信仰により人は義と認められるのです。それは、罪が無いと認められ審判のときに無罪であることを今、知っているということです。私たちが信仰によって義とされるということは、すなわち救われる、ということです。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ人への手紙1: 6 )
神は私たちのうちに素晴らしいことをなさります。それは救いであり、神は必ず完成までに持っていかれるのです。このことについては、また来週詳しく見ていきたいと思います。

2006年8月3日更新

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