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「キリストが私のうちに生きておられるA」

- 2006年8月6日 -

竹田 亮一 師

聖句:ガラテヤ2:20

 私たちクリスチャンは、日曜日に集まり共に神様を礼拝します。聖書には教会に行くという事は書かれていませんが、共に集まる事は書かれています。
共に集まりながら、いろんな状況や問題の中におられる方がいらっしゃいます。また神様の恵みを喜んでおられる方もいらっしゃいます。いろんな方がいらっしゃいます。喜んでおられる方は喜びが増して他の人にも分けます。お互いに支え、神様の前に立って共に求める・・・お互いに手を置いたり、握手したり、声をかけたり、私達は神様の恵み、愛、癒し、力の管です。私達は自分だけのために生きているわけではなく、他の人を祝福するためにまたつくられています。お互いに支えあう事が必要です。とりなしの祈りが必要です。神の主権に委ねるという事は、あきらめる事ではないんです。消極的になってこれが運命だという態度で生きることではありません。

 神様が私を造られたけど遠くから見ている・・・そんな神様ではありません。神様は積極的に、造られた者の中に今も介入してくださり、一緒に旅路を続けて下さり、解決を与えてくださり、力を与えてくださり、癒しを与えてくださるのです。これが神の主権です。わがままな王様が勝手な事をやるのとは違います。神様は愛そのもので、私達に介入してくださるのです。

 私達は律法によってではなく、信仰によって義とされます。(ガラテヤ2:16〜3:3)義とされる事は神の前で責められるところがなく、正しいとされることです。アダムとエバが食べてはならない木の実を食べて、罪を犯しました。神様はそれを見過ごすことが出来ないお方です。罪は神様の臨在を去らせてしまいました。罪があるから恐れと不安があります。“愛には恐れがありません。……恐れには刑罰が伴っているからです。”(Tヨハネ4:8) 罪によって神と人との離別が起こった時に、神が即座に計画して、取り戻そうとされました。罪がある限り神様のもとに戻ることは出来ません。しかし神が愛する御子イエス・キリストを罪を取り去るために送られたという事に、神の愛があります。

 私達の救いは神様の計画、そしてイエス・キリストの従順によって完成されました。そして聖霊が私達一人ひとりのところに来て下さいました。律法を全て守ったからではなくて、聖霊が一方的にいらっしゃって、イエス・キリストが全うされた愛を与えられて、あなたの罪は全部取り消されました。それは過去の罪ですか、十字架の観点からですと将来の罪もです。十字架は、過去も将来の罪をもゆるします。恐れは、最後に神様の前に立ち裁かれるからです。

 恐れを解決するためにいろんな宗教があります。恐れから逃れる事は不可能に近いと、芥川龍之介は「蜘蛛の糸」を書きました。天に昇ることは蜘蛛の糸で上るようなもの。それは不可能なことです。私達は、罪が問題で苦しみます。神様は聖いお方だから少しでも聖くないものを受け入れる事は出来ません。真っ白なペンキの中にちょっとでも黒いペンキを入れたら、もう真っ白ではありません。罪に対し目を瞑る事は出来ません。罪の無いものの上に罪を置いて罰する。バプテスマのヨハネはイエス様を見て世の罪を取り除く神の小羊と言いました。イエス様は罪を取り除くために来られ、赦しの証印として聖霊を与えられました。(エペソ1:11〜14) これが恵みです。キリスト教とは、私達は最後の審判の時に、正しい者として認められるという知識と確信が、今、この時にあるという事です。恐れが無いという事、それが信仰によって義とされるという意味です。

2006年8月10日更新

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