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「どのように歩むか」

- 2006年8月13日 -

マシュー・コーMSI総裁

聖句:エペソ4:1

 MSlとは中国本土にて人々の健康や地域の必要に仕える非営利団体です。私は牧師でも伝道師でもありません。皆さんと同じ、一信徒であり外科医です。(神学校には行かれました。)

 私たちには神様から「聖書」と言う、御言葉を与えられています。神様は御言葉をもって万物を創造されました。この同じ御言葉が私たちの上に働き私たちを変え、また、祈るものを神の似姿に変えられるのです。私たちが聖書を学び、神学を学ぶ時、結果として神様をほめたたえているのです。

 私に与えられた使命の働きを通して皆さんと恵みを分かち合いたいと思います。エペソ1:1に聖徒へとありますが、これは忠実なクリスチャンへということです。聖徒、聖なる者、と神様が言われているのです。聖徒とは、神様に私の内に働いてくださいと心を開き御心をを受け入れる人の事です。
 C・Sルイスと言う有名な作家は、普通のクリスチャンはいない、と言っています 。私達一人ひとりは皆、神の栄光のために造られました。イエス様は沢山の人々を癒されました。それは神様の栄光のためにされたのです。この教会から送り出され中国で働いている曽我さんは、自閉症の子供達の世話をしています。この子供達は神の栄光のために造られました。

 さて、エペソ1章には、私たちは神に選ばれた者。神の恵みはキリストにおいて私たちに満ち溢れている。約束された聖霊で証印を押された。という事が書かれています。2章は、 キリストによって生かされ、キリストのおいて一つとなる。という事。3章、ここでパウロは、キリストの愛を知るようにとお祈りをしています。1章から3章までは、神学、教理です。4章から6章までは実生活、まさにクリスチャンライフ、キリストの身体としての生き方が書かれています。
4章、聖徒として召されたあなたがたは、召しに相応しい生活をしなさいと日常生活の送り方、言動、仕事、人間関係について書かれています。5章、結婚関係、家族関係。6章、職場関係、霊的戦い、となっています。

中国で宣教師は伝道することができません。ではどのように福音を伝えるのでしょう。生活を通してキリストの愛を伝えるのです。宣教の召しを受けたクリスチャンは、現地の人々の中に住み、家に招いたり、働きを通してキリストの香りを放つ、言葉ではなく、愛の行いを通して、人々の魂を救うのです。曽我さんも自閉症の子供達や障害者と生活を共にして、自分の全てを奉げて、傷ついて通常の生活を送れない子供達の回復のために愛をもって働いています。日本人が中国で生活する事は大変です。どうぞ曽我さんのために祈ってください。
 中国を代表して、曽我さんを送ってくださったことを感謝すると同時に、中国が日本を許さない心を許してください。聖書の福音は和解の福音です。

エペソ4:1に「召されたあなた方は、召しにふさわしく歩みなさい。」とあります。ふさわしいとは総てにバランスの取れたもの。例えば@召されているのは、牧師、宣教師だけではなくすべての人が召されているのです。普通の人はいないのです。生活の総ての場で福音を語るべき。Aキリスト教を私のものにしてしまうのでなく、私達のものという考え方が大切です。主の祈りも、我らの父よ、・・我らの日用の糧を・・、とあります。ですからクリスチャンの信仰は、私が、ではなく、私達が、と言う考え方が大切です。福音は総ての人のものです。総ての人を変えることが出来るのです。神様を愛するのは頭で愛するのではなく、心で、精神で愛し、それが行いとして生活を通して神様を愛するのです。私達の魂と身体を分ける事は出来ません。ですから、福音とコミュニティーを切り離す事は出来ないのです。B神様のことだけを語る事が大切です。自分の働きを計るはかりは、どんなに良いメッセージをするかではなく、神様についてどれだけ知っているかでは無く、信仰をどのように生きているか、神様とどれだけ繋がっているかが大切なのです。神学と実生活がかけ離れているなら何の役にも立ちません。神学を生活を通して語るのです。

 エペソ1〜3章は、神様がどれ程偉大でどれ程私たちに恵みを注がれておられるかが、書かれており、この恵みを実際にどのように生きるのかが4〜6章に書かれているのです。それはとりもなおさず私達が神のみ前にどのように歩んでいるかと言う事です。
 ハドソン・テイラーが中国人の服を着て、頭は弁髪にして中国人の格好をしたのは、彼が本当に中国を愛し、中国の人を尊敬していたからです。曽我さんも同じです。
 イエス様の足跡に従うと言う事は、御言葉が私たちに受肉すると言う事です。私達の内に住まわれると言う事です。キリストを着て、御言葉に生きる。それこそ神を愛する事です。 神学と実生活がどれだけマッチしているかという事が一番大切です。 
 ふさわしいという事をパウロは4〜6章で、「歩む」と言う言葉で表しています。

 エペソ
    4−1    その召しにふさわしく歩みなさい。 
  4−17 異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。 
  5−2  愛のうちに歩みなさい。 
  5−7  光の子供らしく歩みなさい。
  5−15 賢い人のように歩んでいるかどうか、注意しなさい。

 歩みは、走ったり、飛んだりと目立つ行いではなく目立たない行いです。目立つ働きをする人を人々は賞賛しがちです。ですから、クリスチャン生活で困難を覚えるのは誰も見ていない処ですることです。善い事も、悪い事も、神は見ておられます。ですから「召しにふさわしく歩みなさい。」と言われるのです。

 私は外科医ですから色々な病気の手術をします。或る時、一婦人の肝臓の手術した時、うまくいかず、その時自分が非常に高慢だった事に気がつきました。そして手術することが偶像のようになっていたことに気がついたのです。クリスチャンとしての働きも偶像になり得ます。全ては神様からの召しなのです。私の通訳をしておられる方も、主婦が家事をするのも召しの一つです。神様がそれをするように、そこに置かれたのです。                                  
召されたと言う言葉がペテロの手紙に5回かかれています。

  1.聖なる者とされるために召された。(Tペテロ1:15)
  2.闇の中から光の中に招いて下さった方を宣べ伝える為に召された。(Tペテロ2:9)
  3.キリストの模範に従う為に召された。(Tペテロ2:21)
  4.祝福を受け継ぐ為に召された。(Tペテロ3:9 )
  5.永遠の栄光に招き入れられた。(Tペテロ5:10)

召されると言う事はなんという祝福でしょう。

2006年8月19日更新

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