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「豊かな収穫をもたらす、主に喜ばれる礼拝」

- 2006年9月17日 -

水野明廣牧師

聖句:エゼキエル44:15-18

 皆様は今朝、主を礼拝するために主の宮に集められたことをどれほど幸いに感じておられるでしょうか。ダビデは主の前で礼拝することは、人としての最高の特権だと自覚していました。主を礼拝するために集まることの重大な意味は主の臨在であり、またそこに聖霊様が働かれるということです。神の栄光と力は主の宮に現れるのです。

 旧約時代、イスラエルの民で忠実に祭司としての任務を果たしたツァドクの人々は、主の前に出る時、亜麻布の服を着なければなりませんでした。亜麻布は正しい行い、聖い生活を意味します。私たちが主を礼拝するとき、亜麻布を着ること、すなわち聖いということがとても重要です。旧約時代、民は主の前に出る準備として、多くの犠牲を毎日捧げなければなりませんでした。イエス様は私たちの罪のために十字架で犠牲となって下さいました。私たちが主の前に出ることができるのはただイエス様の血によります。(参考 ヘブル9:12、10:19-20)

 パウロは「私の誇りはキリスト・イエスの十字架以外にはありません。」と言っています。私たちが主の前にはばかることなく出ることができるのは、自分の業績、能力などは一切関係ありません。ただキリストの十字架の恵みによるのです。私たちはイエス様によって義の衣を着せられました。その義の衣を汚さないで礼拝に来てほしいと主は願っておられます。私たちの心の中に主に喜ばれない汚れが潜んだままになっていないでしょうか。聖い亜麻布の衣を着て主の前に出るなら、主の宮に神の栄光が満ち、神の力が現れます。聖さは力だからです。

●キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。(テトス2:14)

 イエス様は聖い花嫁として私たちをご自分のものとしたいのです。私たちが本当に主のものとなるとき、主はご自由に私たちを用いることができるのです。

●ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。(Uテモテ2:21)

 ですから、もっと聖さを追い求めましょう。サタンは私たちの心に罪、汚れを入れようと働いています。もし自分の罪に気が付いたら、一刻も早く悔い改めてください。主はどんな罪も赦して下さいます。私たちは主の恵みを無駄にしないで、罪をそのまま放置することをせず、また、罪を敵として歩むことを絶対に忘れないで下さい。神は愛であられると同時に罪を憎まれます。主の下さった聖い亜麻布の衣を汚さないで主の宮に集まり、主を礼拝するならそこにすばらしい神の臨在が現わされます。

●神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。(T列王記6:7)

 クリスチャンは生ける石として、共に霊の宮として築き上げられるのです。私たちは礼拝に来る前に石切り場で仕上げられて来なければならないのです。本来、私たちは礼拝の中で整えられるのではなく、自分の家で整えられてから来るべきなのです。私たちは礼拝に来る前に聖霊様に自分の思い、態度から主に喜ばれないものを取り除いて、整えていただいて、聖い衣を着て主の前に出ましょう。見せ掛けは通用しません。普段の生活がとても大切です。クリスチャンライフの礼拝が天国の雛形となりますように。そこから大きな収穫が始まるのです。

2006年9月19日更新

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