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「大きな収穫が訪れる主が喜ばれる礼拝」

- 2006年9月24日 -

水野明廣牧師

聖句:エゼキエル44:17−19

 大きな収穫が私たちに与えられるために、神様は私たちの為にエゼキエル44章から原則を伝えておられます。

ツァドク、レビ人(神の宮に仕える人)はどういう状況の中でも、神の宮に居るということを何よりも重んじました。ツァドクの人たちは宮に来る時は、聖さ、正しさを表わす亜麻布を着ます。私たちはイエス様との婚姻の時、聖い働きを象徴する亜麻布を着ています。(黙示19:8)
私たちの行ったわざは、人間にとっては正しいと見えても人間の思惑や下心があり、神様から見ると汚れた動機ということがあります。ですから、私たちの拠り頼むところはイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストが十字架上で流された血潮によって私たちは洗われます。十字架を見上げて礼拝にのぞみます。礼拝に来る前に、そんな心を持っていたいと思います。ソロモンが神殿を建てる時も、石は組み立てられる前に槌とか斧で整えられて神殿に集められて積み重ねられて家になりました。私たちも生ける石として整えられて来ましょうと話しました。

今日は、18節の「汗の出るような物を身に着けてはならない。」に注目していきます。「汗をかく」とは、人間の努力や仕事としてするということです。主は礼拝する時、私たちの努力や汗に頼らないようにと言われています。

●「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)

私たちの良いわざではありません。ファニー・クロスビーさん、目の見えない姉妹が、聖歌232番を作られました。「罪咎を赦され 神の子となりたる わがたまの喜び比べうるものなし」「神の子とせられし わが身こそ幸なれ 感謝なき日はなく賛美なき夜はなし」

彼女は何にもなかった、目も見えない、でも、罪を赦され神の子となることは、最高の幸せ。神の子となってることは比べることができません。と歌いました。礼拝の一番大切なことは、赦されている、愛されている、認められているということに目が開かれて、その感動の中で捧げることです。こんなに汗を流して礼拝してるから認めてよ。っていうのは礼拝ではありません。
年をとり体が動かなくなった時に、それでも主よ、あなたを信じます。ほめたたえます。というなら、主はなんて麗しい礼拝と喜ばれます。旧約聖書のなかに、アベルとカインの神への礼拝の話があります。羊飼いのアベルは一番良い羊を自分で捧げ、お百姓であるカインは地の作物を捧げました。なぜ、神様はアベルの捧げ物を喜ばれて、カインの捧げ物には注目されなかったのでしょうか。お百姓は汗を流すことを要求され、汗をたくさん流した人ほどたくさんの収穫を得ます。しかし、羊飼いは汗を流しません。羊の食べる草は勝手に生えるし、羊は羊が産みます。カインが汗を流して作った作物より、アベルの苦労しないで羊が産んだ子羊を持っていったら喜ばれる。アベルには神様が下さったものをお返しします。という意味があったのでしょう。神学的にいうと、いのちによらなければいのちは贖われないという意味もあります。アベルは自分の才能、努力を誇れませんでした。ただ、与えられました。と感謝をもって捧げました。カインは汗の結晶、私の努力です。神様はあなたの汗は欲しくない。人間の行い、良い働きを決して誇らないで。といわれます。神様の前にどんなに捧げても、仕えても、それはただの恵みです。主の前には私たちの能力、才能、業績も汚い雑巾のようなものです。主の前に立てるのは、イエス様の十字架のおかげ、恵みとあわれみです。

●「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(Tコリント15:10)
●「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)


パウロ先生は、良いことができたとしても、それは恵みであり誇ることはできない。誇れるものは十字架です。と言っています。主に喜ばれる礼拝こそが、私たちに本当に豊かな人生、大収穫をもたらします。主に喜ばれる礼拝をするために、自分の業績、肩書きを置いて、ただ主の恵みが今日まで私を運びましたと感謝の心を持ちましょう。逆に、何もできないから礼拝もできません。というのも問題です。たとえ人殺しをした死刑囚であっても、だから礼拝できないというと主は喜ばれません。汚れすぎてる、聖すぎる、どちらもどちらです。私たちが礼拝できるのは、まさに主の恵みです。
もう一度言います。礼拝は、私たちの立派さ、世での良い働きを全部置いて、また、私は醜い罪びとです。十字架にすがります。それも全部置いて、主よ、あなたの前に恵みとあわれみによりすがって立ちます。罪咎を赦され、神の子とされた喜びを歌わせていただきます。あなたの子とされ、御国の民とされたこと比べることのできない幸せです。

アウシュビッツを経験した心理学者フランクルは、人間の極限の中で、信仰、主との交わり、人間の尊厳を見つけ、人間はどんな状況の中でも選ぶことに気づきました。彼は、生き延びた人たちが解放された時、すぐに喜んだのではなく解放ということ、自由の喜びがわからなかったと言っています。私たちクリスチャンも、残念なことに、解放されてもその現実に気づくのに時間がかかっている人がほとんどです。
真の礼拝をさせてくださるのは聖霊様です。また、神様がこんなお方だということを、聖霊様の助けよって悟らせていただくことも大切です。礼拝に来るたびに「主よ、あなたの十字架を仰ぎ、恵みに感謝して歌います。もっと、赦されていることがどんなに素晴らしいことなのか悟らせてください。神の子とされていることが世の何よりも素晴らしいことか悟らせてください。」と祈ってください。聖霊様が目を開かせてくださって、汗に拠り頼まない、恵みにより、聖霊様の助けによって生きるそんなクリスチャン生活がしたいですね。

●あらゆる種類の初物、あなたがたのあらゆる奉納物のうちの最上の奉納物は、すべて祭司たちのものであり、あなたがたの麦粉の初物も祭司に与えなければならない。あなたの家に祝福が宿るためである。」(エゼキエル44:3)
●「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)


この御言葉は、あなたの持っている最上のものをもって、祭司を祝福してあげなさい。ということです。教会の中で、そういう要求を祭司たちが一方的にするのは健康的な姿ではありません。また、主の宮で仕える祭司たちの生活が満たされない教会は主の祝福を体験しないことになります。祭司たちを祝福してください。神に仕える祭司たちが疎かにされていて、祝福が流れることはありません。

●「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。」(Tテサロニケ5:12)
●「そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。」
●「そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(使徒6:2,4)


牧師のために祈ってくださり、支えてくださるのは、感謝です。教役者の人たちを大いに祝福する姿勢をとってください。

2006年9月28日更新

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