トップページへ神の家族キリスト教会

 

「聖霊の流れ溢れる教会となる」

- 2006年10月29日 -

水野 明廣 師

聖句:エゼキエル47:3-9

 本日拝読した旧約聖書からのこの箇所は聖霊様の流れの働きを表しています。私たちが少ししか聖霊様に委ねていなければ、その恵みの泉は足首までですが、すべて委ねるときその恵みの泉は溢れ泳げられるほどになり、さらにはこの流れのある所では豊かな実りを得、すべてのものが生きる、と聖書は言っています。

 神様からの恵みというのは一方的に与えられるものであり、私たちが何か人より優れているとか立派であるからということで与えられるものではありません。資格がないのに与えられる、ふさわしくないのにもらえる、これが神様の恵みです。この素晴らしい恵みを私たち人間はなかなか理解することができず、見ることができずにいます。幸せは人や物や地位や名誉から来るものではありません。しかし聖霊様が、私たちが理解できるように導き助けてくださり見せてくださるのです。
愛されている、赦されているということを知ることは何と素晴らしい喜びでしょう。私が牧師になることを決意したとき、私の家族は私に「この家に問題があるからか」と尋ねましたが、私はそういったことで決意したのではなく、私を愛し赦し恵みを与えてくださるイエス様が好きになったから決意したのです。健康で立派な仕事を得て家族があって不自由のない暮らしをしていくことはもちろん素晴らしいことです。しかし残念ながらそれらのものはすべて消え去ってしまうものです。人は一人で来て一人で逝くのです。

のどが渇いて水を飲んでもまた渇きます。サマリヤの女の話が聖書にありますが、サマリヤ人というのはもともとユダヤ人だったのに、ユダヤ人と違う民族と結婚したために差別され、ユダヤ人から嫌われていた人々です。しかしユダヤ人であるイエス様は井戸へ水をくみにきたこのサマリヤの女に話かけ、「私に水をください。」と言われました。この女性は驚いて「ユダヤ人がどうしてサマリヤ人に飲み水を求めるのか」と尋ねました。するとイエス様は「わたしが与える水を飲む者はだれでも決して渇くことがなく、その人のうちで泉となり永遠のいのちへの水がわき出る」と言いました。サマリヤの女は「その渇くことのない水を私にください」とイエス様に言いました。本当に渇いていたのはどちらだったのでしょうか。サマリヤの女でした。この女性には夫が幾人かいましたが、今一緒にいるのは彼女の夫ではなく、平安のない、また後ろ指さされる生活を送っていました。しかしイエス様から渇くことのない生ける水を得、神の賜物を知り、サマリヤの町人にイエス様のことを証言し彼女のことばによって町人はイエス様を信じ救いを得ました。(ヨハネ4:7-42)

 聖霊様の素晴らしい泉の流れは私たち一人一人の内にあります。問題はそれが外へ流れているかどうかです。私は人々に病が癒されるように、また祝福があるように、祈りをささげます。しかし牧師だからといってやっているのではありません。クリスチャンは誰でも人々を祝福するために生きていると私は思っています。誰でも聖霊様のいのちを宿しているのです。井戸はそこに溜まった水を流し出さないとまた新たに水は溜まりません。私は昔、キャンプ場に井戸を作るため7メートルほど井戸掘りをしたことあります。7メートルを何十センチかさらに掘り進めたとき、水が湧き出てきました。やっとの思いで作った井戸でしたが、ある時水の流れがとまってしまいました。村の人に原因を尋ねてみたら、使っていないからだ、と言われました。どんな井戸でも使い続けないと水の流れはとまってしまうのです。私たちはアブラハムの祝福を受け継いでいる者です。神が共にいて、その祝福は年老うごとに増し加わるのです。神より祝福された者の祝福は、その子孫の長子のみが受け継ぐことができ、また他の人を祝福できるという、長子の権利をアブラハムは持っていました。なぜクリスチャンはこのアブラハムの祝福をもらうことができるのでしょうか。それはアブラハムの子孫であり長子であるイエス様からその祝福を受け継いでいるのです。

 聖霊様の素晴らしい恵みの流れを台無しにしてしまうのは何でしょうか。それは私たちのうちにある罪です。傲慢や高ぶりへりくだりのない態度です。ですからいつも聖霊様に助けを求めましょう。それは神と共にいることです。日本の教会は聖霊様に懇願しなくても何とかやっていける、何不自由ない、そのような思いがあるのではないかと、ある宣教師が指摘したことがありました。確かに聖霊様の力を借りなくとも自分たちでやっていけるという傲慢が、聖霊様の恵みの流れの働きを止めてしまうでしょう。そういった教会はただ名前だけの教会です。教会の構成員である私たち一人一人がいつも聖霊様に呼びかけ助けを求め、その恵の泉のなかへ泳ぎ出ましょう。イエス様がされたように、愛するため、赦すため、与えるために生きていく、そのような人生には聖霊様の流れは溢れるばかりになるでしょう。

2006年10月30日更新

先頭へ

戻る