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「聖別を大切にする」

- 2006年11月12日 -

水野 明廣 師

聖句:ダニエル書1:8

 ダニエルは、王の食べるご馳走や王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。

 クリスチャンとして生きるとき、聖い生き方をしたいと主に願い、また人にも求める事は大切です。

 ダビデが王として選ばれた時、主はサムエルに言われました。「・・人はうわべを見るが、主は心をみる。」と、ダビデは自分の国の民を治めるためにいつも主に心を向け、神に自分の心を調べて貰う事を願い、聖めのためにとりあつかわれることを願いました。そして死を前にして跡継ぎの息子や、民の心がしっかりと主に向けられるようにと主に願っています。(歴T29:18)このようなダビデを主は豊かに祝され、地位も国も富みも豊かに与えられました。
しかしダビデは王国も富も誉れも神のものであり、神から出たものである事を知っていました。そして「幸いなものよ主の大庭に引き寄せられるその民は・・」「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩27:4)と、歌ったのです。ほんとうの幸せは、地位や財産ではなく、主と共にいる事だと言っているのです

ですからダビデは主の契約の箱のために宮を建てる志を持ち、そのために奪われている契約の箱を取り戻したかったのです。奪われていた箱は、置かれていたぺリシテの町々で主がその場所を打たれたため、大恐慌となりそれをイスラエルに返すことにしました。ぺリシテで起こった災いが、契約の箱が原因かを確かめるため、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛を車につなぎ、子牛は牛小屋に残しイスラエルの領土に向けて行くままにさせました。すると雌牛は泣きながら右にも左にもそれることなく真っ直ぐイスラエルの地ベテ・シェメシュに入ったのです。

●しかし「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。・・」(サムエルT6:19 )
●その後アビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。70年の間そこに安置されていた。そこからダビデが、ダビデの町に運びいれる途中、「彼らの聖なる者にかかわる奉仕は、肩に負わなければならない。」(民7・9)に反し車に乗せ牛が引いたため落ちそうになった箱を手を伸ばして押さえたウザは神の怒りに触れ打たれた。アロンとその子ら以外の者が契約の箱や聖所の器具に直接ふれたり、見ることを禁じられていたからである。(民4:15−20)


 このような事件の後、オベデ・エドムの家に移された箱は三ヶ月とどまり、主はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。それを知ったダビデは喜び踊りを持ってダビデの町に運び上り、天幕の真ん中の場所に安置した。とあります。ここに聖別の大切さを見るのです。
 ダニエル書で学んで欲しい事が二つあります。

1つは、過去にどのような事があったとしても過去に縛られてはいけないということ。
 ・ダニエルは貴族として生まれ育ったにもかかわらず奴隷とされてしまった。しかし、過去を思い、悲しんだり、恨んだりしていない。 

2つ目は、過去がどうあったかではなく、今、身を聖める事が大切だと言う事。
 ・ダニエルは奴隷であったけれど王のごちそうで身を汚したくないと願った。その結果素晴らしい神の知恵と能力を与えられました。

 旧約で一貫している事は、聖められなければ誰一人神の前に立つことはできないということです。水で洗われ、動物の犠牲の血の注ぎを受け、油注ぎを受けてはじめて年に一回だけ大祭司が至聖所に入ることができたのです。「神」と言う言葉さえ軽々しく語る事ができなかったのです。しかし、今、私達はイエス・キリストの血の洗いによって自由に神の前にでます。イエス・キリストの犠牲はそれほど価値があり高価なのです。その恵みをもっと私は知りたいし、皆さんにも知って欲しいのです。ダビデはこの神を慕い求め主の宮に住むことを願ったのです。世の全ての栄耀栄華を手にしたダビデが「神様の愛は命にも勝る」とうたいました。この様なダビデを神は愛されました。

 神の臨在の素晴らしさをダニエルも知っていたのです。、どのような境遇に落とされても「身を汚さないと心に定めた。」とあります。聖くあることを求めたのです。私たちも聖さを求めましょう。へブル12:14には「・・聖さを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません。」とあります。また「・心のきよい者は・・神を見るからです。」とマタイ5:8に書いてあります。聖められるに従い神を知り、神に用いられるのです。

 私たちが聖くありたいと決心し、追い求めるために大切なポイントをお分かちします。

先ず私たちは聖霊の宮です。ですから聖霊さまの思いがあります。しかし生まれつきの肉の思い(地上の思い)もあります。この二つの思いが行きかうのです。インディアンの話にこういうのがあるそうです。「私の中にとても良い犬と、悪い犬がいて喧嘩している、どちらが勝つかというと、餌を貰うほうが勝つ。」
ですから、いつも良い思いを入れることが大切です。思いはその人自身のもので誰も支配することはできないないのです。神はわたしたちの思いや心に応答されます。いつも聖霊様からの思いを持ってください。しかし、危険なのはサタンから来る思いもあり、様々な悪しき思いを心に入れるのです。ですから「あなたの神、主を心に据えなさい。」「心を尽くして主を愛しなさい・・わたしのことばを、心に刻みなさい。」と神にのみ、心を向けることを奨め、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。命の泉はこれからわく。」と一生懸命守ることを命じています。心に満ちていることを口が語るからです。イエス様が求めておられるのは聖い花嫁です。あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失わないようにとパウロは心配しました。いつも聖さを求め、良い思いで心を満たして生きましょう。主を褒め称えましょう。

2006年11月18日更新

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