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「とりなしの祈りをする人」

- 2006年12月17日 -

水野 明廣 師

聖句:ダニエル9:17-23、ローマ15:29-30

  バビロンに捕囚となっていた、イスラエルの民が故郷に帰ることができたのは、ダニエルの祈りがあったからだと思います。ダニエルは主が預言者エレミヤに語った主のことばによって、神の民がバビロンにとどまっていることは主の御心ではないと悟り、とりなしの祈りを捧げました。(参考 ダニエル9:2)

 ダニエルは主の約束のことばによって祈ったのです。聖書には数々のすばらしい約束があります。しかし、その約束のほとんどは私たちが祈るということによって私たちのものとなります。クリスチャンの持っている最高の力は祈りです。その力は国をも変えてしまうほどのものです。祈りが神の御手を動かすからです。祈りの力は私たちすべてに平等に与えられていますが、ある人はその力を用い、ある人はその力を用いようともしません。イエス様は弟子たちが寝ている時も祈っておられました。イエス様は十字架で私たちが救われるためのすべての業を終えられましたが、今も私たちのためにとりなして祈っておられます。(参考 ローマ8:34、ヘブル7:26)

 私たちが信仰を保つことができるのはイエス様がとりなしておられ、多くの人がとりなして祈ってくださっているからです。とりなしの祈りはいのちの務めです。私たちが誰かのために祈るということは、その人を愛することです。

 私たちクリスチャンは祭司です。(参考 Tペテロ2:9、黙示録1:6)祭司の大切な務めは人々の祝福を祈ることです。私たちは祝福の基とされました。(参考 ガラテヤ3:9)私たちが信仰によって他の人のために祝福を祈るとき、その方は祝福され、また私たち自身も祝福されます。祝福の種を蒔けば、祝福を刈り取る。人は蒔いたとおりに刈り取るのです。自分自身を祝福することも忘れないで下さい。「私はダメだ。愚かだ。不幸だ。」という呪いの言葉に変えて、「私は神に愛されている。神の恵みが今日も私に注がれている。私は最高に幸せだ。」と自分に祝福の言葉を語って下さい。祝福には健康も繁栄も勝利もすべてが含まれています。私たちは祝福を流すために召されたのです。(参考 Tペテロ3:9)

 とりなしの祈りで大事なのは、「〜と書いてある。」という聖書の御言葉に基づいて祈ることです。自分勝手な願いや自分の思いで祈るのではなく、主の御言葉によって祈るのです。ダニエルの祈りに力があったのは、御言葉によって祈ったからです。また彼は先祖の罪を「私たちの罪」といって自らが悔い改めました。このようなへりくだった祈りに力があります。他の人を責める心ではなく、私たち自らがへりくだって、とりなして祈りましょう。義人の祈りには力があります。教会がもっとへりくだって祈らなければなりません。主は滅びようとしているこの国のためにとりなす者がいないと嘆いておられます。(参考 エゼキエル22:30)祈りは私たちの特権であり、私たちがなすべきことです。また祈りには忍耐が必要です。祈り続けることは容易なことではありません。しかし主は私たちが祈り始めたそのときからすでにもうその祈りの言葉を聞いておられます。私たちの祈りの言葉によって主はすでに働いておられます。(参考 ダニエル10:12)

 クリスマスシーズン、人々への最高のプレゼントは祝福の祈りです。祈ってください。祈りは私たちの命です。

2006年12月23日更新

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