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「主のために、が本当なら」

- 2007年4月29日 -

講師:水野明廣師
聖書箇所:ゼカリヤ7:5

●ゼカリヤ7: 5「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。」

●コリントII 5: 15「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」


 あなたが一生懸命断食をしているとき、主があなたに「誰のために断食しているのか。主のために断食しているのか?」と尋ねられたら、どう答えますか?自分の抱えている問題の解決のため、ある物事のため、ある人のため、また自分のため、というようにいつの間にか断食の目的がすり替わってしまうことがあります。また、誰かのために一生懸命した、ささげたのにその相手からひどい仕打ちを受けることもあります。ダビデもそういった経験をたくさんしています。もちろん、誰かのために、自分のために祈りをささげることはとても大切なことです。牧師自身もみなさんが牧師のために祈ってほしいと願います。旧約のエステルやギデオンも「私のために祈ってほしい」と言いました。祈るとき、何かをするとき、それらのことを通して本当にイエス様のために行い、ささげているのなら100倍になって祝福が戻ってきます。「主のために」ということがポイントです。

 イザヤ書58章6節から11節をみてみましょう。神が「主のために」私たちに何をすることを望まれているのかが分かります。イザヤの1章では、悪事をはたらいて血まみれの手でなおもささげ物を携えてくる民に対し神は怒り、そんなむなしいささげ物はいらないと嘆いておられます。

●「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。(イザヤ58: 6)」

私たちが悪から聖別され、自らを清いささげものとすることを神は求めています。

●「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。(イザヤ58: 7)」

このことが私のためにしたことだ、と神は仰せられます。神が求められていること、主のためにしたのなら、私たちには何が起こるのでしょうか。次の通りです。「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。(イザヤ58: 9)」わたしたちが、「くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、(イザヤ58: 9)飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。(イザヤ58: 10)主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。(イザヤ58: 11)」

 マタイの福音書25章34節から40節をみてみましょう。

●「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。(マタイ25: 34~35)」
●「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(マタイ58: 40)」


イエス様はこれらのことは私にしたことだ、とはっきりと言っています。

 私たちは信仰の中心に、「癒し」や「解放」や「恵み」などをいつの間にか置いてしまいがちです。「自分自身のため」の信仰・祈りになってしまい、本来おられるべき方を忘れてしまいます。しかし、私たちがキリストのためにと身をささげたとき、私たちは変えられ聖別されるのです。牧師だからといって肩書きで人は聖別されません。私たちが「主のために」私たち自身を主が喜ばれるささげ物としたなら、ゆだねたその身を主がさいごまで私たちを守ってくださり祝福してくださいます。

2007年5月5日更新

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