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- 2007年6月10日 -

講師:水野 明廣 牧師
聖書箇所:マラキ3:10、Uコリント8:9

●十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3:10)

●あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(Uコリント8:9)


 神であられるイエス・キリストがこの世に来られて、十字架にまで掛られた理由の一つは、ご自分が貧しくなることによって私たちを富む者とするためです。私たちの社会でも親が子供のために自分を犠牲にして一生懸命尽くす姿をよく見ますが、それは哀れみによって神様からそのような性質をいただいているからではないかと思います。神様は最高の親として私たちの繁栄を願っておられます。(参考 詩篇35:27)神様のみことばは私たちがあらゆることで栄えるために与えられました。(参考 ヨシュア1:7-8)

 イスラエルの民は約70年間の捕囚の生活の後、悔い改め、奮起して、主の宮を建てエルサレムの町を再建するのですが、しばらくすると再び彼らの心は神から離れて、捧げ物もいい加減な残り物だけを捧げるようになり、祭司たちまでが神の道をはずれ堕落して行きました。そのような中で書かれたのがマラキ書です。マラキはイスラエルの民に対して「あなたがたは神のものを盗んでいる。まず十分の一を神のものとするように。」と預言しました。(参考 マラキ3:8)

 神様は祝福の先行の一歩としてまず十分の一を主のものとしなさいと教えておられます。十分の一教えはモーセの律法以前のものです。アブラハムは神の祭司であるメルキゼデクに対して十分の一を捧げています。(参考 創世記14:18-20)ヤコブもまた神様と出会う経験をした後、十分の一を捧げるようになりました。(参考 創世記28:22)
 イエス様はパリサイ人に対して十分の一は厳格に守っても、正義、哀れみ、誠実に欠けていることを戒められました。(参考 マタイ23:23)私たちは律法的な極端に走ることのないように気をつけなければなりません。神様は誠実さ、哀れみを大切にされます。そして私たちの繁栄を願って十分の一を実行するように教えておられるのです。十分の一に関しては、私たちにためしてみなさいとまで言われています。良き父である神様はこれほどまでに私たちを祝福したいのです。私たちの献金は種蒔きにたとえられます。イサクは飢饉の時に種蒔きをして百倍の収穫を得ました。(参考 創世記26:12)主に対して蒔くことを後回しにしないでください。まず先に主に捧げてください。主は私たちの労苦を絶対に無駄にされません。

●私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。(Uコリント9:6)

 マケドニアの教会の人たちは試練や貧しさの中でも惜しみなく捧げ、与えました。(参考 Uコリント8:2)献金は恵みのわざです。(参考 Uコリント8:6)決して強制されるべきものではありません。献金は神の愛の真実を証しするものであり、神の熱意の表れです。(参考 Uコリント8:8,12)口先やことばではなく愛の真実を求められるのです。(参考 ヨハネ3:16-18)

●あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:21)

 主は私たちの宝がどこにあるのか、心がどこにあるのかご存知です。献金は神様と私たちの関係に深い意味を持っています。十分の一やその他の献金をしながら、私たちは感謝、愛、信仰、主に喜ばれる心を持つことが大切です。私たちが十分の一をいつも喜んで備え、また豊かに与え、本物の豊かさを持つ人となりますように、そしてすべての人々から、しあわせな者、神から祝福された人と言われるようにと祈ります。(参考 マラキ3:12)

2007年6月14日更新

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