トップページへ神の家族キリスト教会

 

「愚かさには戻れない」

- 2007年7月15日 -

講師:大矢頭師
聖書箇所 詩篇85:8

 

 神様は、私たちに安心を与えたいと願っておられます。私たちが、毎日を心配しながらではなく、安心して過ごしてほしいと思っておられるのです。ダビデは神様は嵐の中の避難所であると言っています。避難所とは、ここにさえいれば絶対に安心だという所です。私たちにとって、神様は避難所です。主に身を避けることは、私たちが本当に安心できることであり、この安心の中に生きることがクリスチャン生活です。それには私たちがまず神様から与えられているものを知ることが必要です。神様がすでに御言葉で私たちに語ってくださったことをしっかりと受け取り、そこにとどまっていれば良いのです。

●私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。(詩篇85:8)

 御民と聖徒たちとは・・・・ここではイスラエルの民のことですが・・・これはやがて私たち全体に及んでいく神様の約束です。

●シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。(ゼカリヤ9:9-10)

 イエス様は諸国の民に平和を告げられます。すなわちこれは私たちと私たちの周りのすべての人々に語られる約束です。イエス様は私たちに平和、言いかえれば平安を告げられます。イエス様は争い、憤り、怒りなどを取り除いて、私たちの心や人間関係の中に平安を置いてくださると語られるのです。そして語られた方、イエス様の御国の影響力はあらゆる領域にもれなく及んでいくのです。私たちがイエス様を信じて、神様が与えてくださる平安を持つことによって、今度は私たちから私たちの周りの人々、イエス様をまだ知らない人々にいたるまで神の平安を持つことを主は願っておられるのです。問題があるとき、人間は平安を失います。悩んでいる人々の問題解決の助けをすることが、どこから始まりますか。それは平安を与えてくださる神様を知っている人から始まります。イエス様は平和を実現するために軍馬ではなくロバに乗ってエルサレムに入られました。イエス様は力で抑止する方法を取られませんでした。神様は、一見弱い何の力ももっていないように見えるイエス様の神としての栄光と力、聖霊様の力の中での平安を私たちが受け取り、それをイエス様のように用いてほしいと願っておられます。

●サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」サムエルは答えた。「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。(Tサムエル16:4-5)

 サムエルは「平和なことで来ましたが、あなた方も身を聖別して私といっしょに来て下さい。」と言っています。これはイエス様が願っておられることと同じです。主が、私たちに与えると語られるとき、さあいっしょに平安を与える人になりましょうと招いておられるのです。

 私たちから始まります。家庭でも職場でも私たちの内側から平安が流れていくように主は願っておられます。神様を知っている人から始まるのです。聖書にある愚かさとは神様を知らないことです。御言葉を聞いて、神様をもっと知ろうとすることによって私たちは愚かさに戻りません。神様を知っている私たちに主は御言葉を実行されます。私たちの心の中に良いものが生まれ、私は行動を起こすのです。私たちが神様の癒し、慰め、解放などの御言葉を体験するとそれは私たちの心の中に書き記され、そこに聖霊が注がれると私たちは立ち上がって神様がされたことを同じように実行する人になります。与えられているものを使ってください。

 神様が私たちの内側に植えられた神様の御業の種は、聖霊の雨を受けて芽を出し、もう熟して豊かに実を実らせるようになっているはずです。私たち自身が立ち上がって実行していく時です。心配しないで下さい。神様は平安のなかで事を行わせてくださいます。私たちの内側にある豊かな実りを通して、ますます豊かな収穫の喜びを味わっていかれますように祈ります。
 

2007年7月20日更新

先頭へ

戻る