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「祝福を受け継ぐ」

- 2007年7月29日 -

講師:神戸 京子 師
聖書箇所 ガラテヤ3:9

「そういうわけで、信仰によるすべての人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」

 

 有名な宗教改革者マルティン・ルターが、ある時、旅の途中で立ち寄ったある宿屋の壁に、落書きがあったそうです。「どこからきたのか分からない。どこに行くのかも分からない。でもこの世が楽しいものであることを喜ぶ。」ルターは、この落書きのそばにこう書いたそうです。「どこからきたのか知っている。どこへ行くのかも知っている。けれど、この世が苦しいものであることを憂える。」と。

 私たちの人生には辛く苦しいことが起こります。村仲先生が突然天に召されたこともそうですが、「なぜこんなことがおこるのか」という受け入れ難い出来事や試練があります。しかし、それらの中にあって、信じる人々は信仰の人アブラハムとともに祝福を受けると主は約束されておられます。
ヘブル人への手紙11章6節には「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。主は私たちの信仰を喜ばれるのです。

 そして、ローマ10章17節に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあるように、私たちが信じるのは日本の風習や言い伝え、自分が経験し、学んできたこと、みことばにない事がらではありません。みことばが基なのです。

 けれど、信じてはいても待たされることがあります。自分の願いが自分の時間軸の中で進まず苛立つことがあります。しかし、皆さん、時間も主のものです。天が地よりも高いように、わたしの道はあながたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い(イザヤ55:9)とありますが、主のなさることがあまりに大きいために、私たちの視野にそれが収まらず、理解出来ず、心配し苛立つことが多いのです。主は真実な方で試練を通して素晴らしい祝福を与えて下さるのです。私の身内にあった出来事を通してその証をしたいと思います。

 沖縄の私の家族は以前は、全員クリスチャンでした。父親は私が産まれてすぐに家を捨てて出て行ってしまいましたが、祖母、母、兄二人、私とみんなで教会に楽しく通っていました。しかし、母、兄二人がしだいに教会を離れていってしまいました。私は名古屋へ来て、この教会を知ったことで家族の信仰が回復するように、ペンテコステ教会へ導かれますようにと、二つのことを祈り続けました。

 20年あまり祈り続けたのですが、私の祈りとは裏腹に現実が逆行していきました。信仰の回復どころか肉親の関係は冷え切ったものへとなっていってしまいました。それだけではなく、母が病により歩行が困難な身体になり、主治医の先生からは手術を勧められました。難しい手術で失敗すると寝たきりになるが、このまままでも寝たきりになるとの医師の話でした。母自身も手術を望んでいましたが、私は手術を断りました。

 そんな体でしたが、母はそれまで同居していた長兄の家族と別居することになり、やっと見つかった場所はアパートの2階という母が生活するには厳しい条件のところでした。一人暮らしになって母の信仰は回復されましたが、ほかのことは悪くなるばかり、逆行するばかりでした。

それから間もなくな長兄が病に倒れました。末期癌でした。けれど、それがきっかけで母と長兄の関係が回復されました。母は私以上に力強く、「イエス様に立ち返るように。」長兄を諭し、長兄は母の言葉に頷きました。母は10m歩くのに2回も休まなければならない体でしたのに、その母の足腰も癒され、2kも2kも歩けるようになっていました。

 長兄は病院でクリスチャンの看護師さんと出会い、その方と信仰を分かち合うようになり、召される前にその看護師さんの教会へ家族を連れて行きました。その教会は私がペンテコステの教会へ導いて下さいと祈っていた通り、ペンテコステの教会でした。そこで義姉、長兄の子供達4人、義姉のご両親が次々と救われました。母と長兄の家族の関係は目覚しく回復しましたが、一緒の教会へ行くまでには至っていませんでした。

 私にはもう一人の兄がいましたが、母のことで相談がしたいと思い連絡をしましたが、連絡が取れませんでした。実はその次兄も病 の中にあって、母が大変な時に何もしてあげられない自分のことを恥じていたのです。やっと電話に出て貰えた時も「会いたい。」と言う私に「会えない。」を繰り返すので「いつか会えるよね。会おうよ。」と言いましたが、良い返事は貰えず、「元気でね。」と電話は切れました。その翌年、長兄が召されて次の年に次兄は突然に天に召されました。青天の霹靂の出来事でした。

 しかし、その出来事の後、長兄の嫁、義姉が母を自分達が籍を置くようになった教会へ母を誘ってくれました。以来、毎日曜日になると義姉がアパートまで母を迎えに来てくれて、一緒に礼拝へ行くようになりました。

 私も長らく待たされました。自分の祈りは主に届いていないのではないかと思うこともありました。婦人祈祷会の皆さんにもお願いして祈って貰いました。そして、主は大いなることをなされたのです。

 信仰生活のなかで、私たちは待たされ、ときに試練を与えられ、忍耐を必要とします。自分の時間軸ではなく、すべての主権は主にあります。神は私たちにまず「信じる」ことを求めておられます。

 ダビデは詩篇51篇10節で主に揺るがない霊を求めていますが、その聖霊は私たちに「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの」を啓示してくださるとTコリント2章9〜11節にあります。 試練の中にあって、聖霊様を求めていきましょう。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)とある通りです。また、ダビデは詩篇51篇 12節で喜んで仕える霊を求めていますが、私たちが聖霊様に聞いて従うことです。聖霊様を求めて、聖霊様が主の御心を啓示され、自分の握っているものが主の御心にそぐわないものであることを示されたなら、従う従順さが必要なのです。

 環境や状況によって上がったり下がったりする安定を欠いたエレベーターのような信仰生活を捨て、神の揺るがない霊を求め、神の御声に従っていきましょう。

 アブラハムは望みえない時に望みをもった、信仰がますます強くなった(ガラテヤ3章14節とあります。凄いことです。

 ヘブル12章2節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とありますように主が私たちに信仰を与え、私たちの信仰を完成して下さるのです。どんな時も主に目を向けていきましょう。そうする時、弱い私たちであっても信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。

2007年8月11日更新

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