トップページへ神の家族キリスト教会

 

「祝福の確信はイエスキリストの復活から」

- 2015年4月5日 -

講師:水野 明廣 師
聖書箇所:マタイ 28:5-6

「すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てください。」

 今日は復活の朝、イースターです。実はイスラエルでもこの週は過越の祭が行われています。イエス様が最後の晩餐として食べられたのは過越の祭を祝う食事でした。その祭が丁度、金曜日に始まりました。そして、それと同じようにイエス様の復活をお祝いする日が近いというのは素晴らしいことだと思います。

 マタイの福音書の28章は、神のひとり子として地上にお生まれになったイエス様が私たちの罪と刑罰を全部引き受けて十字架につけられ、正しいお方が罪となって葬られた。しかし、葬られただけで終わったのではなかったということが書かれています。イエス様が死んで葬られた時、イエス様に付き従ってした弟子たちはみんなイエス様を見捨てて逃げて行きました。イエス様が、ご自分が人々に捕らえられ、死ななくてはならないと言った時、死んでもついて行きますと言った弟子もいましたが、現実にイエス様が捕まったのを見たとき、彼らは恐れて逃げて行ってしまったのです。ペテロは、見つからないようにコッソリ後を付いて行きましたが、自分がイエスの弟子であることがバレそうになった時に、イエス様を否定するという恐ろしい失敗をして嘆きながら逃げて行きました。弟子たちだけでなく、イエス様を慕って付いて来た女性たちも大きな悲しみに囚われていました。この時、誰もイエス様が捕らえられて死ぬことの意味を理解することができませんでした。

●「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、(ルカ 4:18)

 イエス様はこの御言葉をもって宣教を始められました。それは、罪に囚われたすべての人を自由にするためでした。私たちがこのイースターの朝を喜ぶことが出来るのは、キリストの復活によって自由を得ることができたからです。

●キリストは、自由をえさせるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ 5:1)

 イエス様が死んで復活されると何度も弟子たちに語っていましたが、彼らはそれを理解できませんでした。それどころか、そのことを受け入れることも出来なかったのです。だから、イエス様が復活したことを聞き、それを弟子たちに告げた女性たちの言葉を弟子たちは信じることが出来なかったのです。

●なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(1ヨハネ 5:4)

 イエス様の死と復活によって人間にとって究極的な最後である死にさえも勝利したのです。だから、イエス様を信じる私たちクリスチャンは、死では終わらない人生を持っているのです。私はそれを私の親が亡くなるときその事を本当に見ました。私の妻のお父さんが体が弱り、医者から余命宣告をされたとき、妻のお兄さんが入ってきてお父さんに言うんです。「お父さん。素晴らしい特権だね。もうすぐ天国に行くんだね。」と言うので驚いてしまいました。聖書には、神を信じる聖徒の死は尊いことであると書かれています。私はこの時、父なる神様は神を愛する聖徒を天の国で大きな喜びを持って迎え入れて下さるのだなと感じる出来事でした。私たちクリスチャンにとって、イエス様の復活によって死さえも勝利にのまれてしまった、この現実に生きていることが大事です。弟子たちがイエス様が死んで嘆き悲しんだけれども、復活されたことによって喜んだように、私たちクリスチャンも全てのことが悲しみだけでは決して終わらず、喜びとなるのです。

 イエス様が復活されて弟子たちの前に現れた時、弟子たちに「平安があるように」と言いました。ヘブル語でいうと「シャローム」です。この「シャローム」という言葉は、心に平安・平和があるようにという意味だけでなく、「あなたの人生が神様の誉れと栄光に変えられますように」という深い意味があります。復活のイエス様に出会った弟子たちは平安を得たのです。

 私たちの人生には沢山の問題、つまずきが起きます。しかし、私たちはイエス様の復活のゆえに平安を得、平安の内に歩むことが出来るのです。イエス様の復活のゆえにこの平安と祝福が約束されているのです。それを得るために私たちは、イエス様の足元に身を置くことが必要です。忙しい日々に私たちはイエス様を思い、イエス様の足元に身を置くことの大切さを忘れがちになってしまいます。

●すると、大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。(マタイ 15:30)

 皆さんの人生にどんな問題があっても、皆さんの人生をイエス様の足元に置くことを忘れないでください。私たちはイエス様の足元に身を置く時に初めてイエス様にある平安を体験することができ、イエス様ご自身を知ることが出来るのです。ある人たちは知識だけでイエス様のことを知ろうとします。しかし、それだけでは不完全です。私たちはキリスト教という宗教をやっているだけで満足しないでください。イエス様と共に生きることを通してイエス様を知ること、主から与えられる平安を体験することが大切なのです。

 マルタはイエス様の足元に座って話を聞いているマリアを注意するようにイエス様にお願いしました。しかし、それに対してイエス様は、「本当に大切なことはイエス様の足元に座って聴くことだ」と仰いました。マルタは沢山のやらなくてはならない事に囚われていました。勿論、彼女のやっていたことが大切ではないという事ではありません。しかし、私たちが最も大切なこととして受け止めるべきことは、イエス様の足元に身を置いて主を礼拝することです。その時、私たちは人生のどんな問題の中にあっても本当の平安を得ることが出来るのです。皆さんがそのような人生を歩めるように祈っています。

2015年4月15日更新

先頭へ

戻る