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「不戦敗からの解放」

- 2017年8月13日 -

講師:大矢 頭 師
聖書箇所 II コリント 4:10-11

「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」

 この箇所はすごく悲劇的な話です。苦しい、痛い、そうような事です。しかし、そのような状況にある人生の中にキリストのいのちが働いている事が書かれている箇所です。では、私たちの実際の生活はどうかというと、残念ながら結構負けているという事があるのではないかと思います。今日は不戦敗からの解放という事についてお話しします。戦わずして負けることからの解放です。私たちには霊的に戦う事が求められています。私たちは霊的な戦いを戦って勝利することを通して、証を立てていきます。

●この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」(II 歴代誌 20:17)

 この箇所では最初に「この戦いではあなた方が戦ってはならない」と書かれているので、クリスチャンは戦わなくても良いと考える方がおられます。しかし、この最初の一文は、神が戦いを戦われるという宣言です。神様は私たち全員に先頭を行かれるのは神ご自身であると言っておられるのです。だから、動じないであなた方の立場に留まっていなさいと言っておられます。恐れたり、気落ちしたりせずに戦いに行きなさいと言っておられます。私たちが神様にあって戦いに出て行く時、神様は必ず私たちと一緒におられます。

 自分の力に頼る時、他の人に依存する時に私たちは霊的な戦いから退いてしまうのです。私たちは自分の無力さを覚える時、私たちは自分と共に居てくださる方がどなたかを思い起こす必要があります。また、私たちが自分の頑張りを思い出して、「こんなに頑張っているのに」と考えたりする時にも注意する必要があります。勿論、私たちは誰かに助けて頂くことも必要です。しかし、誰に助けを求めても私たちはクリスチャンとして戦いの最前線に自ら出て行くように召されているのです。私たちはクリスチャンとして主の戦いへと出て行く必要があります。

 主が先に戦われるとはどういう事でしょうか。

●ヨナタンは手足を使ってよじのぼり、道具持ちもあとに続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがそのあとから彼らを打ち殺した。(I サムエル 14:13)

 ヨナタンは勇士です。戦いに秀でた人です。この勇士であるヨナタンが戦いに出て行った時に道具持ちを連れて戦いに赴いて行きました。そしてヨナタンは戦いの前線に立って敵を打ち倒し、倒れた敵に道具持ちが止めを刺して行ったと書かれています。もし、ヨナタンと道具持ちが敵の大勢いるところでバラバラに戦ったら、二人の戦士はすぐにヤられてしまったでしょう。しかし、戦いに秀でているヨナタンが先頭で敵を蹴散らし、道具持ちが敵に止めを刺すことによって確実に戦場で勝利を治めて行ったのです。そしてこのヨナタンと道具持ちの戦う姿は私たちが主と共に霊的戦いにおいて戦う姿の雛形でもあります。

 主が先陣を切って、敵をなぎ倒してくださるのです。そして 、私たちが道具持ちがしたように蹴散らされた敵に止めをさす事を通して勝利を治めさせてくださるのです。

● ――これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである――(士師記 3:2)

 私たちは霊的戦いについて学ぶ必要があります。私たち自身が霊的領域において膝をかがめて祈る事を通して霊的戦いがどのようなものであるかを学ぶ必要があるのです。そして、自分たちが学ぶだけではなく、次の世代に対して霊的戦いについて教える必要があるのです。
霊的戦いを学び、それを実行する人だけが、神様の約束された領域を勝ち取ることができるのです。私たちが霊的戦いを避ける時、私たちは約束された領域を勝ち取ることは出来ません。だから私たちは跪いて祈る必要があります。

 神様は私たちが様々な霊の戦いの領域において祈り、勝利を治めることを願っておられます。だから、私たちは膝をかがめてもっと祈りを捧げる者となる必要があります。そ して、神と共に働く者となりましょう。

2017年8月31日更新

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